路上に動物がうろついている

路上に動物がうろついている。

日本だと猫がメインだが、海外に行くと野良犬が町中をうろついているし、カンボジアに行ったときは牛がうろついていた。ベトナムに行ったときは孔雀が道を走っていた。

 

なんというか、海外に行くと何かにつけ緩いなぁと思うが、動物が店の中とかを平気でウロウロしているのを見ると何もかもがどうでも良くなってくる。

日本だと病気が伝染しそうだし、衛生上よくなさそうだし、何より間違いなくクレームが入ると思うので、店の中に野良犬が入ってきたり、野良猫に餌を上げたりはできないと思う。それはそれで綺麗でいいんだけど、時々こういう感じの世界観に浸るのも悪くないと思う。

 

インドネシアに行った時、レストランの軒先でニワトリがコケコケ鳴いていた。とうとう野生のニワトリまで出てきたかと感動したが、鶏肉料理を注文するとレストランの軒先で「コケーッ!!」という断末魔が聞こえてきた。食料だったらしい。ここまでのおおらかさはいらない。

私の悪癖(見栄っ張り編)

私は多くの悪癖を持っているが、その中でも「見栄っ張り」の悪癖は凄まじいものがある。

 

もちろん少し見栄を張るくらいならみんな多かれ少なかれやると思う。

 

いい時計を買ったり、ちょっと背伸びしたブランド品を買ったりしたりするのは、消費者心理としてはある意味正常とも言える。

 

私の見栄はそういう普通のものではなくて、もっとこう、なんというか非常にイタい見栄の張り方なのだ。

 

私は大学受験で滑り止めで明治大学立教大学の心理学部を受けていた。初めての大学受験だったが、その時の私の心境は「受かるかどうか」ではなく「周りの受験生に変な目で見られていないかどうか、頭が良さそうと思われているかどうか」だった。

 

だから試験前に参考書を広げるような真似はせず、ディックの「ユービック」を読んでいた。

試験と全く関係ない本を読むことで楽勝アピールをして、周りを圧倒しようと思ってのことだった。ちょっと頭がおかしかったとしか思えない。

ちなみに私の隣りに座っていた女の子は(メチャクチャ可愛かった)キャリーバッグから20冊くらいの参考書を取り出し、机の上に積んでいた。試験15分前のことだった。これも私とは別の形での見栄の張り方だろう。ただ結果を確認したところ、その子は落ちていた。

 

本命の国立大学のときは流石に真剣に挑もうかと思いきや、私は試験に合格することより見栄を張る事を優先した。周りのみんなが最終確認をしている中、試験前と休み時間中に作ってきた弁当を食べていた。これで落ちたらあまりにもイタいが、ちゃんと受かっていたのでギリギリ見栄は張れた。

 

このイタい行動も10代で終わるかと思いきや、なんと就職試験のときもやってしまった。法務省の心理矯正官という試験を受けた時のことだった。

受験会場が東大で、当日は異様に暑かったことを覚えている。

狭い教室に大量の受験者がすし詰めになり、ひたすらに暑苦しかった。

周りのみんなはもちろん最後の追い込みをしていて、私もそうするつもりだったが、なんかみんなと同じようにするのが嫌という中学生みたいな理由で、私は昼休み中に外に出た。

そのまま東大の近くにあったパブに入って、カレーを食べてコロナビールを2杯飲んだ。ビールを飲んだのは完全に無意識のことで、受験中に飲むのは流石に不味いかと思ったが、頼んじゃったし仕方ないかと思って飲み干した。

午後は酔っ払ったまま論述試験に挑んだ。

その試験は無事合格し、次にさいたま新都心の合同庁舎で面接試験があったが、この時も面接ギリギリまで「鋼鉄都市」を読んでいた。

このように、私は「この人すごい」って思われたい欲求が強く、強いだけならまだしもそれが謎の行動に移ってしまっているのだ。

多分この悪癖のせいで私はいつの日か被害を受けることになるだろうと思っている。

ちなみにこの記事を書いたのも同じ悪癖によるものだ。

知らない土地にやってきた

 

主婦生活を始めた。

大学を卒業してすぐ就職し、それなりに楽しく仕事をしていた。

結婚を機に仕事を辞めた。

知らない土地にやってきた。

都会とも田舎ともいえないなんとも中途半端なところ。

 

私の定義する都会とは、道路が3車線以上で人がうじゃうじゃして

徒歩圏内で生活のすべてを賄うことができるところ。

 

私の定義する田舎とは、名字で出身地がわかり、知らない人にも「こんにちは」って

挨拶する文化がいまだに残っているところ。

 

こんなふうに定義してしまったら日本のおおよそのところがどちらでもないに分類されちゃうのかもしれない。

 

中途半端なところ、でも意外と悪くない。

魚が美味しくて車で出かければそこそこお店がある、そんな程度で良いのだ。

できれば、一人で行けるカフェを見つけて

できれば、ケーキやプリンが美味しいお店を見つけて

一人でも楽しいと思える生活ってなんだろう。

そんなことを考える、土曜日の夕方。

トナカイが実在しないと思ってた話

実は最近までトナカイは架空の動物だと思っていた。

どうしてこんな勘違いをしていたかというと、小学生の時サンタが架空の存在と知ったショックで、サンタが乗っていた動物であるトナカイもドラゴンとかと同じノリにカテゴライズされてしまったのだ。

それが実在の動物だと知ったのはフィンランドでトナカイのステーキを食べたときのことだった。

フィンランドのレストランに行ったとき「よくわからないからオススメ頂戴」と行ったら「○○○のステーキ」と謎のステーキを出された。

普通に牛肉のステーキかなと思って食べてみると変な味がした。

羊かなにかの肉だろうかと思ってメニューを調べてみると、さきほどの店員の言葉はトナカイという意味だった。

ああ、トナカイって実在するんだとその時初めて気づいた。

一緒に食べていた友人にそのことを伝えると「馬鹿じゃないの」と言われた。

そんな8月のフィンランドだった。

 

サウジアラビアでモスクに行った話

サウジアラビアに行ったことがある。普通は観光目的の入国ができない国だ。中東の国は初めてだったので、いろいろなことにびっくりした。まず匂いがすごい。中東の国々はなぜか共通の特有の匂いがする。水タバコの匂いなんだろうか。

そんな中で最もカルチャーショックを受けたのがモスクだった。私の中でモスクというのは神社や教会のような神聖なものという位置づけだった。というか実際精神的な立ち位置としてはそうなのだろう。しかし実際見た感じとしては、どちらかというと大きな公民館のような雰囲気を感じた。

中東の国は暑い。太陽の眩しさが日本とは比較にならない。

外にいると真剣に命の危険を感じてくる。

だから昼間は屋内に逃げ込む必要がある。

でも小さな家に逃げ込んでも、あまり暑さからは逃れられない。

そんな中でモスクという大きくて天井の高い建物は風が通り抜けて涼しく、ひんやりとしている。(業務用扇風機も元気よく回っている)

それにモスクに来れば友人が多く来ている。

井戸端会議の場にもなっているように感じた。

しかし彼らは平日の昼間からモスクに集まって仕事は大丈夫なのだろうか。

大丈夫ではない。昼間にサウジアラビアで店に入っても、まぁまぁの確率で店員はどこかに行っている。

ちなみに日没になってお祈りの放送が流れた瞬間にすべての店が扉を締める。

店の中に客がいても普通に追い出す。

残業の発想もないという潔さで、むしろ清々しく感じた。

こういうのを見ていると、日本のお店ももっと適当でもいいのかもなぁと思ったりする。

インドに行くと人生観が変わるとはよく聞くが、サウジアラビアもまぁまぁそれに匹敵すると思う。

皆さん、機会があったらぜひサウジアラビアに行ってみてください。

まぁ危険だし、普通は入国できないんだけど。

肩が凝る

最近、肩が猛烈に凝る。

首を右、左に傾けるとゴキッと音が鳴る。

いいのか悪いのかわからないけれど、音がなんとなく快感なのでついやってしまう。

肩にちっちゃい重機が乗っているのかっていうくらいに重い。

あのよくわからない怪しげなマグネシウムネックレスをつけようかと思うほどだ。

 

肩が凝るようになったのがいつ頃からかと思い返してみると、働き始めて3年目くらいだった。

仕事のストレスなのか、それとも単なる老化なのか。

ただ中高生くらいの頃もそれなりにストレスはあったはずで、何なら今よりもストレスフルな生活を送っていた。

なのに肩が凝っていなかったということは老化なのだろう。

アラサーになったという悲しい事実をようやく実感する。

 

今はこんなだが、昔は肩が凝りたくてしょうがない子供だった。

父親が土日に肩が凝ったと言って、息子の私によく肩を揉ませていた。

だから私の中では、肩が凝るというのは頑張った証のように感じて憧れていたのだ。

小学生の頃は肩が凝ったと言い張り、父親に揉んでもらい、全く凝っていないじゃないかと笑われて悔しい思いをしたものだ。

それが今や肩こりに悩む普通のアラサーになってしまった。

子供の頃の憧れなど実現してみると所詮こんなものなのかもしれない。

でも、私もほんの少しは父親に近づけたのかもしれないと思うと、少し嬉しい。